素晴らしきかな、読書遍歴
人生で成長したなと実感する瞬間があります。読めなかった本が難なく読めたときです。
私は学歴や経歴と同様に読書歴があると考えます。読書歴とは何冊読んだではなく、この時期にどういうジャンルにデビューしたか、読めるようになったかだと思っています。誰しもこの本を皮切りにこのジャンルを読むようになった、という経験があるのではないでしょうか。
今回は私の読書遍歴を簡単に紹介します。
小学校高学年まで正直、文字が多い本が苦手でした。
漫画か挿絵が多い本を好んでいたが、『妖界ナビ・ルナ』(フォア文庫)との出会いが転機でした。絵は二十ページに一枚あるかないか。私にとって字しかないようなもの。その本を始めとし、同じくらいの文章量なら何でも読めました。スマホはなかったので、暇なときは本を読み漁りました。
中学生になって中二病を発症しました。そのきっかけも一冊の本でした。
朝の会まで読書時間が設けられていたが、家から本を持ってくるのを忘れ、仕方なく教室の本棚から適当に一冊とりました。
それがすごかった。今度は字が小さいです。一ページの情報量が多いです。挿絵もほとんどありません。でものめりこみました。
まったく興味がなかった世界に二、三歩踏み入れ、気づけば奥地に入り込んでしまいました。私はその本と同じ出版社の本をとにかく読み漁りました。この段階までいくと、小説に絵がなくても全く気にならなくなりました。
高校生になり、もう没頭できる本は現れないだろうと思っていたましたが、油断しました。そう出会いとは突然なのです。友人の付き合いで仕方なく参加した読書会の課題本として現れました。
『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店)
最初から仲良くなったわけではありません。
私は数ページ読み、頭にずっと「?」だらけでした。が、読書会への純粋な責任感から、ジャングルに生える個性的な言葉という奇妙な植物に襲われ、視点変更という道に迷い、ようやく我々は握手しました。その後、森見登美彦のストーカーが如く、新刊がでれば即買いに行ったことは言うまでもありません。
皆様の読書遍歴はいかがでしょうか?
夢との距離感
翻訳家になるのが狭き門であることは、私自身がよく分かっています。先日、夫から「職場に昔翻訳をしていた人がいたけど、全然お金にならなかったらしい。通訳のほうがいいんじゃない?」と言われました。その瞬間、私は思わず「そんなこと、一番分かってるよ」とムキになってしまいました。
とはいえ、少し落ち込んでもいます。私に夢を叶えるなんて無理ではと。他の人はどんどんやりたいことを実現してるけど、自分には無理な気がしてしまう。
確かに、お金を稼ぐことだけが目的なら通訳という選択肢もあるでしょう。けれど、もっと現実的に考えれば、今のエンジニアの仕事を続けたほうが収入は安定しています。だから私が翻訳を目指す理由は、お金ではない。
私が惹かれているのは出版翻訳です。本を日本語に訳し、誰かの手に届ける。その営みには、効率や収益だけでは測れない魅力があります。言うなれば、そこにはロマンがあるのです。
もこの夢は今すぐ叶えたいものではありません。何年後でも、あるいは老後になってからでもいい。焦る必要はないのです。もしかしたら夢がかわるかもしれませんが、それもまた人生。
ただ人生のどこかで挑戦してみたいです。そのくらいの距離感で、私は翻訳という夢を大切に持ち続けています。
最初からそうすればよかったと思うこと
昔からの習慣は、安心感をくれる一方で、自分を縛ることもあります。
最近、ホラー系YouTubeを見過ぎたせいで、夜に寝るのが怖くなりました。。物音に敏感になり、暗闇の中で悪い想像ばかりしてしまいます。
でも不思議なことに、昼間はまったく怖くない。
だったら、夜も無理に真っ暗にしなくていいのではないかと思いまして、常夜灯をつけ、睡眠用のBGMを流してみると、あれほど感じていた恐怖心がすっと消えました。
暗くして静かに寝るのが「当たり前」だと思い込み、ただ我慢していたのです。案外、悩みの解決策は拍子抜けするほど簡単なところにあるのかもしれません。
私が愛した黒ウーロン茶
最初に黒ウーロン茶を飲んだのは、確か社会人二年目のころだったと思います。コンビニの冷蔵棚で、妙に威圧感のある黒いラベルが目に入りました。
「脂肪の吸収を抑える」という、やけに強気な文句が書いてあります。
こちらとしては別に脂肪と戦うつもりなどなかったのですが、その日はなぜか唐揚げ弁当を手にしていたので、なんとなく罪悪感をごまかしたくなりました。
飲んでみると、普通のウーロン茶より苦いのです。苦いというより、「私は健康に効きます」という顔をした味でした。正直、おいしいとは思いませんでした。
しかし不思議なもので、人間は「体によさそう」という理由だけで、少しまずいものを信頼してしまう気がします。薬味たっぷりの漢方のようなものです。
それからというもの、私は食事のたびに黒ウーロン茶を買うようになりました。焼肉。ラーメン。深夜一時のコンビニパスタ。
どんな暴食にも、黒ウーロン茶さえ添えれば「まあバランスは取れている」という気持ちになれました。実際には全然取れていないのですが、人間の精神衛生とは、そういう曖昧な思い込みによって支えられているのかもしれません。
特に残業続きだった頃、私は黒ウーロン茶にかなり救われていた気がします。夜十時、会社近くの牛丼屋に入り、湯気の立つ特盛を前にして、「でも飲み物は黒ウーロン茶だから」と心の中でつぶやきます。
その瞬間だけ、自分が完全に生活に負けたわけではない気がしたのです。
ある日、いつものようにコンビニで黒ウーロン茶を探しました。しかし売り切れていました。仕方なく普通の緑茶を買ったものの、どうにも落ち着きません。
ラーメンの横に置かれた緑茶は、妙に無力でした。脂っこいスープを前にして、「私は特に何もしませんが」という顔をしているのです。
私はそのとき初めて、自分が黒ウーロン茶に「機能」だけではなく、「免罪符」を求めていたことに気づきました。
結局、黒ウーロン茶は私を痩せさせませんでした。健康診断の数値が劇的によくなったわけでもありません。それでも、私は黒ウーロン茶が好きでした。
あの少し苦い味には、「今日もなんとか乗り切りました」という味がしたのです。
左手にフォーク、右手にスプーン
ごはんが好きだ。炊きたての白い粒が湯気をまとって立ちのぼるのを見ると、「これからちゃんと食事をするのだ」と体が静かに整う。おかずが多少頼りなくても、ごはんさえあれば満たされる。そんなふうに信じてきた。米の国に生まれた者として、自分たち以上に米をうまく食べる国はないと思っていた。――それは思い違いだった。
先日、フィリピン出張の夜、同僚に夕食をごちそうになった。
「フィリピンのおかずは味が濃いから、ライスは必須だよ」
最初に運ばれてきたのは「ギシンギシン」。刻まれた緑の野菜は一見サラダのようだが、一口食べると塩気とコクが舌いっぱいに広がる。思わず箸――ではなくフォークが止まる。これは確かにライスがいる。慌てて白いライスを口に運ぶと、濃い味がほどよくほどけていく。
「右手にスプーン、左手にフォーク。フォークでおかずとライスをスプーンに乗せて食べるんだ」
言われた通りにやってみる。ぎこちない動きも、数口でなじむ。スプーンの上に小さな“ミニ丼”を作る感覚だ。
次に出てきた「シシグ」は、熱々の鉄板の上で音を立て、香ばしい匂いを放っていた。刻んだ豚肉にニンニクと酸味が効き、ひと口で食欲をつかまれる。すぐにライスを重ねる。もう止まらない。山のようにあったライスがみるみる減っていく。
「フィリピンの人って、ほんとにライス好きなんだね」
「うん。マクドナルドでもケンタッキーでも、チキンとライスのセットがあるよ」
思わず笑ってしまう。ファストフードにまでライスがあるとは徹底している。
日本ではいま、炭水化物を控える食事が好まれる。気づけば自分も、ごはんを食べる量が減っていた。けれど目の前の食卓は違う。ライスは堂々と主役になっていた。
帰国したら、あの食べ方をまねてみよう。右手にスプーン、左手にフォーク。ごはんを、もう一度ちゃんとおいしく食べるために。
桜の季節に、少しだけ別人になる
桜がとても綺麗な4月です。
始まりの象徴。こんな言葉が似合うのは学生や新社会人であり、入社7年目の自分には無縁だと思っていましたが、どうやらそうでもないようです。
まず、仕事とプライベートのイベントからお話しします。
人生で初めての海外出張です。フィリピンに行くのも初めてですし、海外に足を踏み入れるのも数年ぶりです。フィリピンには事業所がありますが、現地で行うのは見学だけではありません。フィリピンのチームメンバーに仕事の内容を説明する場が2時間ほどあり、今はその発表資料作りに追われています。
家庭では、結婚式の最終打ち合わせを控えています。
入籍してから5ヶ月ほど経ちましたが、夫婦として新たな出発を記念する大切なイベントです。
始まったというよりも、少しずつ変わり始めているのは内面のほうです。
以前よりも文章を書くことが好きになりました。これは現在受講している翻訳講座のおかげです。ノンフィクションにはもともとあまり興味がありませんでしたが、改めて自分の分野や文体の幅を広げるきっかけになりました。
講座では翻訳だけでなく、エッセイを書く課題もあります。これもなかなか楽しいです。
もちろんフィクションの翻訳講座も楽しかったのですが、努力の方法が「たくさん読む」「たくさん訳す」くらいに限られており、それだけで自分が成長できているのか不安に感じていました。今は、どれだけ訳文を自然で簡潔な日本語で表現できるかを意識しています。
もう一つの内面の変化は、感情のコントロールです。
以前は少しでも不機嫌や怒りの感情が湧くと、そのまま流されてしまい、感情が止まらなくなることがありました。けれど今は、自分を俯瞰して見ることができる場面が少しずつ増えてきています。もちろん毎回うまくいくわけではありませんが、ふと我に返り、冷静になれる瞬間も出てきました。
みなさんはいかがですか?始まったこと、変わり始めたことに目を向けてみてください。数年前の自分とは別人になっているかもしれません。

爛漫、風とともに帰る
自転車をひと漕ぎすると、少しやわらかくなった風が頬をなでていきます。ふと、雪みたいなものが横切った気がして、前の公園に目をやると「ああ、そうか」と気づきました。もうこんな季節なんですね。明日からはコートも薄手でいいかな、雨が降らなければいらないかも、なんて考えます。
ひらひらと舞うそれは、公園に近づくにつれて増えて、服にくっついてはすぐに風にさらわれていきます。きっと髪にもついているはず。指でそっと触れてみると、やわらかい花びらが一枚、すぐにほどけて消えてしまいました。
そのまま自転車で公園の横を通り過ぎます。子どもたちが元気に遊んでいて、その様子を見るたびに自分の子どもの頃を思い出します。ブランコに立って漕ぎながら、「このまま空に飛べるかも」なんて思っていたこと。オレンジ色の空に向かって、何度も膝を曲げ伸ばししていました。
ふと見ると、木によじ登っている子もいて、その姿が昔の自分と重なります。手のひらはガサガサ、すねや腕はすり傷だらけ。それでももっと上に行きたくて、時には顎まで使って必死に登っていました。高いところにたどり着いたときの、ちょっと怖くて、でも誇らしいあの気持ちまでよみがえってきます。今はこういう遊びも少なくなっているんでしょうか。安全って大事だけど、そのぶん失われているものもあるのかもしれません。
もうひと漕ぎして、風をまといながら進みます。さっきまでただの空気だったのに、そこにふっと生活の匂いが混ざってきました。お風呂の湯気や、じっくり煮込まれた料理の香り。どこかの家から漂ってくる味噌の匂いに、仕事でパンパンになっていた頭がすっとゆるんでいきます。そういえば冷蔵庫にカレーの材料、残っていたっけ。副菜でもらったかぼちゃの煮物もあったはず。夕飯のことを考えたら、自然とペダルを踏む足も速くなりました。
信号で止まって、ふと空を見上げます。さっきまで舞っていた花びらは、いつの間にか少なくなっていました。その代わりに、淡い色の雲がゆっくり流れています。季節って、気づかないうちにちゃんと進んでいるんですね。さて、もうひと踏み。今日も家に帰ります。